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This Month's Slow Life 〜 今月のスローライフ・コラム〜
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レゴ |
友人の赤ちゃんを訪ねて行ったら、レゴのおもちゃがいっぱい置いてあった。レゴといえば最近はスターウォーズ・レゴがあったり、いろいろなシリーズが出ているという。ふと、レゴってどうしてそんなに人気なんだろうと考えてみたりした。
日本ではそれほど人気はないかもしれないが、こちらヨーロッパでは相変わらずのすごい人気。スーパーのおもちゃ売り場にはいつもたくさんのレゴが置いてある。確かにレゴで作る「舞台」はすごい。「舞台」と私が呼ぶのはレゴの人間を取り囲むセッティングのこと。農園を舞台にしていたり、その他消防署や警察署、マクドナルドのドライブスルーから飛行場までいろいろなミニチュアを楽しむことができる。これはやっぱり大人にも楽しい。

でも人間の顔はいたってシンプル(というかみんなほとんど同じ顔)。手はいつもU字型(つかんだりはさんだりできるようになっている)。腕も足も前後に動かせるだけ。そしてふと考えた。それならもしレゴがギリシャ・ローマ時代に作られた彫刻のようにいわゆる完璧な人間でできていたら、と。
世界史の教科書に載っているような、ギリシャ・ローマ時代の彫刻。レゴのおもちゃが「美の理想」とされるような人間だったら、と。
そこでふと気がついた。レゴのいいところはもしかしたらちょっと不完全なところなのかもしれない。顔も変化がなくて、動きも少なくて、それでも面白いと思えるのは、なんとなく物足りないレゴの人々の不完全さが愛らしくそしてある意味独特に映るからなのかもしれない。
そういう意味で不完全であることはそれほど悪いことではない。完全であることはみんなが目指すものだからだいたい似たようなものだろうけれど、不完全であることは人それぞれ異なる。だからそれを逆に追求していけばいつかオリジナリティーになる。そういうことなのかもしれない。
それなら自分の弱点を逆に面白おかしく売り出してしまうのもいいことかもしれない。そういえばマギー司郎さんも自著『生きているだけでだいたいOK』の中で言っていたようなことだった。あ、そういえばなんとなくレゴ人間のあどけない顔とマギー司郎さんの無垢な表情って似ているところがあるかも。[2008/06/15]
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プテラノドン |
現代の田舎暮らしは実はけっこう贅沢だったりする。

東京で暮らしていたときは一人で車を使うことなんてほとんどなかったのに、こちらに住んでいると5キロ離れたスーパーに買い物に行くのも一人で車を出さなきゃいけない。バスももちろんあるけれど、1週間分の買い物をするとなるとやっぱり車が必要になってくる。
なので最近あまり歩いていないことに気がついた。目の前の車に乗るまで12歩、スーパーの駐車場に車を停めてからスーパーに入るまで20歩、大きなスーパーだからけっこう時間がかかって歩かなくちゃいけないけれど、そうはいっても東京で駅まで30分歩いていたときより距離としては少ない。
というわけで近くの海辺に歩きに行くことにした。
これが都会と田舎の違いで、都会では何かするために歩く。目的があって歩く。でもここでは歩くために歩く。それができるのはやっぱりいい。
海辺には誰もいなかった。もう12月ともなれば海水浴を楽しむ人もさすがにいない。遠くからぽつんと見える人影は渋いおじいちゃんたちだ。長い釣り竿をその横にじっと座っている。本も読まずにただ真正面に広がる青白い静かな海を見つめながら。私はそんな彼らの邪魔にならないように、波打ち際ではなく大変だけれども乾いた砂の上を一歩一歩、一方向に歩くことにした。
その日は久しぶりに風もなく穏やかな暖かさだった。雲もないので日陰になることもなかった。波もないから音も何もしない。自分が歩くことで変化するものは何もなかった。同じ風景、同じ海岸線・・・・・・そんなとき突然目の前が一瞬日陰になった。
ふと下を見てみると、大きな鳥の影があった。その影の大きさからしたらまさにあの空飛ぶ恐竜プテラノドンがいるかのようで、実際の鳥の大きさは相当なものに思えた。
おそるおそる上を見ると、そこには小さなかもめが優雅に飛んでいるだけだった。さっきの恐竜プテラノドンの影は、そう太陽光線の前を通った美しいかもめだったのだ。
そっか、あんな小さいかもめがこんなにも大きく見えてしまうことってあるんだ。そういえば生きていてもそういう経験ってある。本当は小さな事柄がいつの間にかどんどん雪だるま式に大きく変わって見えてしまう。本人の話ではたいしたことなかったのが、周りにいくほどどんどん膨らんでいつの間にか実際の話しとはまるで見当もつかないような大掛かりなものになってしまうことが。
もちろん物理に詳しい人ならこんなくだらない体験はしないだろうと思う。でもこんなちっぽけな体験から、ふと人生の教訓を学ぶことができるなら、物理に詳しくなくてもそれほど悪くはないと思える。
私たちの身の回りの自然とはいつもこういう生きる中での大切なことを教えてくれているんだろう。その自然に触れることができなかったら誰が教えてくれるのだろうか。[2007/11/30]
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戻らない |
今の世の中、戻ってこないものなどほとんどない。
そういえば去年セビリアの空港でなくしたPDAも使っていなかった友人の同型同機種をもらえることになったおかげで「戻ってきた」。なんでもデジタル化されている時代となっては、頭の中から「なくなってしまった」記憶などもインターネットで検索すれば「戻って」くることもある。もちろんデータを一度削除してしまえば戻っては来ないのだけれど、よくよく考えてみるとインターネットという膨大な情報のすみかの中で、似たようなものを探そうと思えば探せなくもないわけで、ある意味「戻すことも可能」ともいえるような気がする。
ものだけじゃない。「お金」だってある意味戻ってくるものだ。今あまり働くことができずにお金に困っていたとしても、将来的にそれが続くとは限らない。いつかいい仕事が見つかって、一気にお金を稼ごうとすることだって無理というわけじゃない。
でも時代がどんなに進化しても、どんなに高度に技術化しても「戻ってこない」ものがある。そう「時間」だ。
友人が赤ちゃんを産んだ。だんなさんはまだ大学院在学中で就職先を探しているところ。しかしもう一年大学院に籍を置いておこうか迷っているという。奥さんはとにかく赤ちゃんはお金がかかるからと就職を進めているが、彼に一言こう言われたのだそう―「お金は戻ってくるけれど、時間は戻ってこないからね」。
彼にとって自分の赤ちゃんが1歳になるまでの時間は二度と戻ってこない。特に赤ちゃんの成長は日に日に変わるから、それを体験するだけでもお金には換えられない貴重な時間になるはずだ、と。
時は金なりという。ギリシャ起源のこの言葉「時は高い出費に値する」に由来する。これをベンジャミン・フランクリンが「時間は貴重であり有効なものであるから、無駄に費やしてはいけない」と時間の尊さを教えた。でも時は金ではない。時は何にも変えられないしたとえようもない。時間はお金のように戻ってこない。どちらがどれだけ大切か、一回の人生しかない人間なら誰もがわかると思う。[2007/10/15]
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お釣り |
カディスへ行くのには 1 時間に 2 本しかないバスに乗らなくちゃいけない。でもこのバスは時間通りに来るし、30 分だけ待つだけだから田舎にしてはいいほうだ。といっても 5 分おきに時刻表どおりにきちんとやってくる 東京のバスと比べるとやっぱり忍耐力が必要になってくる。そう、こういうバスに乗っていると、東京での生活を思い出す。
小学校から毎朝バスに乗って学校へ行っていた。子供用の定期を首からぶら下げて、重いランドセルを乗って学校まで 30 分。今でも東京では定期券を持っている人は多いだろうし、そうでなくても昔は回数券があって、ただ一枚切って透明の箱の中に入れるだけでよかった。そういえば透明の箱の底面に動く黒いミニチュアサイズのベルト・コンベア(みたいな)を覗いて小銭や回数券が中へ消えていくのを最後まで見ていたっけ。そんな小さなことも子どもの私にはとても楽しいものだった。
こんなものを思い出したのは、こちらのバスには定期券がほとんど存在しないことを知ったからだ。いや回数券(というか今はバスカード?)はあるのだけれど、売っている場所が限られているために、ほとんど持っている人はいない。そういえば日本でも一時 2000 円札が出回ったけれど、使うところが限られていたために、もうほとんど見られなくなってしまった。宣伝だけは見るのに使っている人は見ないという状態になっている。
話しは逸れてしまったけれど、というわけでみんなが小銭を出してくるんだけれど、 律儀な日本人の一人である私のように事前に運賃 2.15 ユーロ用意している人は少ない。だいたい 5 ユーロ札か 10 ユーロ札でお釣りをもらおうとする人が多い。そうすると運転手さんがいちいち計算してお釣りを渡さなければならない。それが 1 人だけならまだしも、 8 人くらい続くとかなり時間をとられてしまう。嫌味な私は一度どれだけ時間がとられているか計ってみたら、なんと 12 分もかかっていた。
日本ではこういう時間とはまさに 無駄な時間。できるだけ早く処理できるよう機械にたよって「自動釣り銭システム」みたいなものがが取り入れられたりする。確かに急いでいるときには厄介なことになるけれど、ここではちょっと様子が違う。
誰も急いでいる人は見かけないし、お釣りをたくさん出してもらっている人を見てもいやな顔をする乗客もいない。それどころか、お釣りを数えている間に運転手さんと乗客の間で なごやかな会話が生まれている。運転手の近くに座っている人までその会話に入ってみんなで笑顔になっている。これをただの無駄な時間と言えるだろうか?
実はこういう無駄な時間こそ、笑顔が生まれる時間であり、緊張がほぐれる大切な時間なのかもしれない。こういう光景は田舎にはあっても都会には少ない。無駄なものこそまず最初に排除すべき……的な雰囲気が東京にはいつも立ち込めているけれど、こういう時間が、私たちをゆったりさせてくれるのであり、笑うという動作を通して人間として、動物として生きていることを実感できる時間なのかもしれない。[2007/08/08]
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ドラマ |
毎朝起きると鼻の穴がかさかさする。鼻がつまるので鼻の中を掃除すると血が出てしまう。そんな症状が 2 週間くらい続いたので、こちらのお医者さんに行くことにした。
スペインではまず「家族医」といって初めはいわゆる内科のお医者さんに見せに行く。その内科医を通して歯科医、耳鼻科医、産婦人科医などの専門医にたどり着けることになっている。
でもお医者さんに行く前にまずインターネットで自分の症状を探してみることにした。日本語で探してみると慢性副鼻腔炎などといういかにも「病気」らしい名前がついていた。何なのか詳しくはわからなくてもとにかく「炎」とつくものは英語の inflammation であり日本語も英語もどちらも「火 flame」が入っていることからもわかるように何かがやっぱり正常ではないんだということだけは感づいていた。
私が外国人であることは(もちろん見た目でわかることだけれど)よく知っている先生は、まず私の話しを聞いてくる。「どうしたの?」
いろいろつたない言葉で説明すると、「鼻の中を指で触るから直るはずないでしょ」と突然お叱りの言葉。まぁいつもこの先生は機嫌が悪いので私も「そりゃそうですね」と笑い飛ばしながらうなづいた。
当然のことながら鼻を見てくれるのかと思ったら、すぐに処方箋を書き始めた。あれれ?普通のお医者さんなら少しは「お医者さんらしいことをしてくれるだろう……鼻をよくある金属の棒で開いて検査するとか、東京だったらなんかハイテクな機器さえ使って鼻の中に異常がないかくらい見てくれるはずなのに。
「はい、これ。一日一回これで鼻掃除すること」と言われただけで、先生は笑顔になって、それで終わりだった。
私としては「炎症気味ですね」とかなんか「病気らしい」言葉を期待していたのに、ちょっとがっくりだった。いやがっくりなんてしていてはいけない。本当ならそれほど重い病気ではないということで嬉しいはずなのに、どうしても期待はずれできょとんとしてしまった。
こんなスペインのお医者さん、心配性の私のような日本人からしたら「ちゃんと診断してくれてるの?大丈夫なの?」と不安に陥ってしまうかもしれない。
でも別の見方をしてみれば病は気から。こんな先生ならどんな病気も重い病とは考えないで、ただの気の乱れとして扱ってくれて、その病気のせいでまた気が滅入って病気を悪くするなんてことにはならないかもしれない。私のように「炎症」の言葉に惑わされて事態を実際の症状よりずっと重大視して脚色してしまうこともないかもしれない。
そう、英語ではよく dramatize なんていう言葉を使うこともある。病気をドラマ化せず、脚色せずに病気とともに生きていく。それもやっぱりスローな生き方の一歩ともいえるんだ。[2007/07/29]
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発見 |

友達の赤ちゃんが 4 ヶ月になった。久しぶりに顔を見なかったら、もうどんどん大きくなっていって驚いた。
友達の話では赤ちゃんは毎日いろんなことを学んでいくんだという。
赤ちゃんが遊んでいたのはライオンのぬいぐるみ。おなかのところにボタンがあって、ボタンを押すと英語とフランス語の歌が聞こえてくる。
今まではただ見ているだけだったのが、赤ちゃんが最近になってこのライオンくんと遊ぶことを学んだんだという。何度もボタンを押しては歌を聞こうとする。英語もフランス語もどっちでもかまわない。今の時点で学んだのは、ボタンを押したら歌が聞こえるということだけ。
そんな小さな発見が毎日続く。それが赤ちゃんの長い長い一日だという。
そんな赤ちゃんのことを考えていたら、私たち大人は毎日そんな発見をしているのだろうか。もちろん赤ちゃんはこの世界に生まれてきたばかり。何でも初めての体験ばかり。
もちろん大人はもう毎日を生きることに、朝起きて、仕事して、帰ったら疲れて寝て……同じことばかり繰り返しているようにも見える。ただ慣れすぎてしまってだからといって大人にはその日ごとに何も発見がないってこと、ありえるのかな?
もしかしたら小さな身の回りの発見をしているのに、その発見ということ自体にも慣れてしまっているだけじゃないのかな?
よく考えてみたら、毎日まったく同じ日なんてありえない。海にやってくる波が似ていてもひとつも同じものがないように、実は毎日何かが少し違うんじゃないのかな。ただその違いにも気がつかず、気がついてもそれを楽しまないのが大人なのかもしれない。[2007/07/14]
そういえば動物は地震を予知できるというが、赤ちゃんもそうらしい。80年代に起きたアルジェリアの大地震で、赤ちゃんとアルジェに泊まっていた友人から聞いた話し。地震の 1 時間前から、赤ちゃんが泣きやまず、ミルクをあげてもあやしても何をしてもただただ泣き続けていたという。これも赤ちゃんの動物的な発見の力なのかもしれない。そしてもしかしたら大人だってこういう力を備えているのに、ただ上手に使っていないだけなのかもしれない。[2007/07/14]
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ひなぎく |

If I had my life to live over,
I’d try and make more mistakes next time.
I would relax.
I would be sillier than I have been this trip.
I would be crazier.
I would take more chances.
I would climb more mountains,
swim more rivers and watch more sunsets …..
I would eat more ice cream and less beans.
I would have more actual troubles and fewer imaginary ones.
You see, I am one of those people
who live prophylactically and sanely and sensibly,
hour
after hour, day after day.
In fact, I’d try to have nothing else.
Just moments, one after another,
instead of living so
many years ahead each day.
I have been one of those people
who never go anywhere without a thermometer, a hot water bottle,
a gargle, a raincoat and a parachute.
If I had to do it over again,
I would go places and do things and travel lighter than I have.
If I had my life to live over,
I would start bare-footed earlier in the spring and stay that way later in the fall.
I would play hooky more.
I wouldn’t make such good grades except by accident.
I would ride on more merry-go-rounds.
I’d pick more daisies.
(Nadine Stair, aged 87,Lewisville KY USA)
最近ふと雑誌で見つけた Harley Davidson の広告。Daisies は「ひなぎく」のこと。87歳になって「もう一度人生やり直せたら、もっとひなぎくを摘んでるだろうな」なんて素敵……。
このおじいさんが言っているから、人生ってそんなもんなんだろうな。ってことはまだまだ若い私たちもあまり先のことを心配しすぎずに生きていくのもいいのかもしれない。[2007/06/24]
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減る・張る |
スペイン・アンダルシアの大西洋岸の港町、カディス。ここはなんていったって暖かい。10月終わりだというのに日中は27度くらいまで上がったりする。ヨーロッパの天気予報を見ていても、アルジェリアやモロッコなど北アフリカの気温とだいたい変わらない。夜は15度くらいまで下がるから、やはり砂漠みたいな気候だ。
それなのに今日、10月29日(10月の最終日曜日)から夏時間が終わって普通の時間帯に戻った。私はこれを勝手に「冬時間」と呼んでいる。今まで日没が夜の7時半だったのか、6時半に変わる。この1時間の差、こうやって文字にしているだけではたった1時間の差なんて、と思われるかもしれないけれど、実際に過ごしてみると大きな違いになることがわかる。

週末の夕方7時に家を出て水平線に沈む夕日を見ながら散歩できたのに、これからは一時間前の6時に出なくてはならない。今まで8時に買い物をしてもまだ少しは明るかったのに、これからはもう真っ暗になってしまう。だから今まで日没前後にやっていたことも何でも一時間早めて行動するようになる。仕事の時間などは変わりないけれど、何かしら一日を過ごす姿勢が変わる気がする。「冬時間」の始まりで、ヨーロッパは一気に「冬モード」に入る、そんな感じだ。
この「冬モード」、特にスペインでは生活の面にも反映されているような気がする。例えば大学や語学学校、塾などはたいてい10月開校で、そのうえ10月中(つまり10月の夏時間中)は履修科目や時間変更などが自由にできる。だいたい10月31日が最終締め切り。そして11月から本格的に仕事、学校へ力を入れる。こういう移行期の過ごし方があると、人々もめりはりのある一年間を過ごしている。そしてゆっくりと冬モード=働くモードへの切り替えをしているのだ。
冬眠という言葉がある。クマだけでなくハリネズミやコウモリ、リス、ヤマネコまで多くの動物が冬眠をする。植物にも寒期に成長を止めるものもあるらしい。地球上の生き物には夏と冬とめりはりをつけるものがある。人間はさすがに冬眠はしないけれど、スペイン人は冬になると少しずつ仕事・勉強の意欲を高めていく。ヨーロッパではほとんどの国で一年は10月から始まって、5月頃が年度末になる。これもなんとなく自然なリズムのような気がする。寒い時は部屋の中でじっと仕事。暖かくなったらめいっぱい外に出て遊び休む。そんなめりはりがある。
でもこういう一年の過ごし方も悪くない。遊ぶ時はめいっぱい遊ぶ、働く時はめいっぱい働く。『カッシーノ!2』を出した浅田次郎が「“よく学びよく遊べ”というが、日本人はよく学びよく働け。仕事しかない。」と言っていたけれど、もしかして日本にもサマータイム制度があったら少しはこういうめりはりが出てくるのかもしれない、なんて遠い異国の地で他人事のように考えてみた。
もちろん冬モードの初めはやっぱりみんなまだだらだらしがち。日没の早いこれから5ヶ月間は「働かなくてはいけない」という暗くて重い空気が、町を歩いているだけでひしひしと伝わってくる(というか少なくとも私の頭の中はそんな空気でいっぱい)。それでもちょっと遊びから離れて働くという行為が、さらに遊びを楽しく貴重なものにする。まさにバランスのとり方が一番大事、ということをこちらの人々のめりはりのつけ方から学んだ。
ちなみに、めりはりという言葉、普通のワープロソフトでは漢字の変換はできず、平仮名かカタカナしか出てこない。なんだ、外来語か、はたまた何かの擬音語(モノが“メリハリ”する音?)かと勝手に想像していたけれど、広辞苑では「減り張り」と書いて「ゆるむことと張ること」だという(読みはもちろん“へりはり”でなく“めりはり”)。実は『役者論語(やくしゃばなし)』(1776年-元禄時代の名優の逸話や言行などを書き留めた書物)の中に出てきて歌舞伎の俳優術研究に必要だとか。昔の日本人は「めりはり」という概念を歌舞伎という芸術を通して学んでいたらしい。ということは私たちにももともとめりはりの精神があったはず。それが浅田次郎氏の言うように今は少しずつ忘れ去られている。[2006/10/29]
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脳の働き |
PDA を失くした。スペイン・セビリアの空港で取られたらしい。「らしい」と書いたのはどこでどうやって取られたのか、無くなったのかまったく思い出せないからだ。
今夏のイギリスでのテロ摘発事件の後、持ち込み荷物として飲料水も液体爆弾になる可能性があるとして拒否され、PDA やゲーム機器、果ては使い捨てカメラまで起爆装置になるとされ厳しく制限された。そんな話しを聞いていたから、パリからスペイン・セビリア行きの飛行機に乗るのにも空港で注意される前に気をつけていた。なんとも礼儀正しい日本人だったのだろう。セビリア空港に着いた時、隣の女性が PDA の電源を入れた時には、やっぱり欧米人のずうずうしさを見習わなければと学んだものだった。
そんな矢先、気がつけばスーツケースの中にいれておいたはずの PDA がなくなっていた。確かにスーツケースの入り口付近に置いただけで奥のほうに隠さなかったから、鍵がかかっていてもなんとかしてうまく取り出すことが出来たのかもしれない。それにしても日本語版の Palm をスペイン人はどうやって使うというのだろう?
フランスやスペインでは、MP3 プレーヤーや DVD プレーヤーがスーパーマーケットなどで激安で売っていることがある。それも AKAI とか TOKAI とかあまり日本人には名の知られていないメーカーとして出ている(いやらしいのが、HITACHI のようにちょっと日本風の名前で、品質がよい製品のように見せかけているところ、本家本元はたいそう迷惑だろう)。こういう製品は性能的には問題はないらしいのだけれど、その安さは部品が会社独自のものではなくていろいろなメーカーの部品を集めて作られているところから来ているという。きっと私の PDA も分解されていろいろなところに売られてしまったのかもしれない。
そんなわけで、私のネタ帳だった PDA がなくなってしまった。(ソニーのクリエだったから)手書きメモには思ったことを書きなぐるようにして少しずつ溜めていたのに、もうそれがない。脳とはおかしなもので、PDAのような電子機器を持っていると、電子機器に書いたら一生そこに残り続けるとを信頼しきってしまうのか、逆に脳の動きが止まったような感じになる。だから今になってネタのいくつかを思い出そうとしても、残念ながらほとんど思い出せない。悲しいことに、2 つくらいしか出てこなかった。半年以上、貯めてきたネタが一瞬のうちになくなると、これほど大きなダメージを受けるものかというのが初めてわかった。
また新しい PDA でもモバイル・パソコンでも買えばいいじゃないか、と言われれば確かにそうかもしれない。でもこれだけ自分で考えたことを何も思い出せないことを真剣に受け止めたら、原点に戻って紙ベースでやっていこうかなと思っている。紙に書くと、まずどこに書いたか、どのカテゴリにしまったかとかいろいろ覚えておかなければいけない。書いた順番を変えたり、どの項目をどこにまとめるか、などいろいろと脳を使わなくちゃいけない。どこに書いたか思い出すのにも、あれこれページをめくったりしながら、他のメモも参考にしてあ、こんなことも書いていたんだっけ、と脳は今より「働かざるをえない」状況になる。スローに生きるなら、脳が必要とするこういう時間もきちんと大切にしなければいけないとも考えるようになった。
それにしても脳の働きが一時中断している今の私。韓国俳優にはまっている母親から習った韓国語フレーズもけんちゃなよ~くらいしか思い出せない。PDAをなくしてからのショックからまだ立ち直っていないから、とでも言い訳しておこうかな。[2006/9/15]
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数字 |
田舎にいるとほとんど関心がなくなるのが数字。数字こそまさに産業が栄える都市が生み出した概念という気がしてくる。
東京にいた時は、いろいろな意味で数字のことばかり気にしていた。例えば、時間もその一つ。誰との待ち合わせでも必ず着くまでに何分かかるかという数字をきちんと計算しなければいけない。自分が仕事をした時間だってやっぱり数字の一つ。十代の頃は自分の外見ばかり気にしていて、それが体重という数字で頭の中がいつもいっぱいだった。そういえば大学入試のための偏差値とかもよく気にしている数字の一つかもしれない。
一番厄介なのが、やっぱりお金という数字。自分がいくら使ったか、今月どれだけ稼いだか、今年のボーナスはどれくらいか(ってフリーランスの私には不要な悩みだが)、ちょっとの数字の差だけで私の機嫌はよくなったり悪くなったりしたものだった。
特に東京のようなMateriarism(物だけに価値があるとする物質主義)がはびこっている地域では、ひたすら周りからいろいろな数字を押し付けられる。30代サラリーマンの平均収入とか、今年のボーナスで買ったものはいくらとか、とにかく数字を中心にした情報が洪水のようにあふれかえっている。私はそんな洪水に何度も飲み込まれておぼれそうになった…
数字の最大の効力は、何と言っても目標の値が決まったらただひたすらそれに向かって行動させる強制力。その数字だけを目指して、何が何でもやる。自分も周りも何も考えずに、目標に向かって突っ走る。本当にその目標が達成するに値するのかも考えることなく…。数字にはアラビア数字という文字以外になんら他の概念が含まれないから、それはどんどん勢いを増すばかり。一個人から一国家を担う政府まで、誰もがみんな目標にした数字を達成することしか考えていない。
でも動物には数字という概念はほぼないに等しい。数字なんて気にしなくたって、自然の規則に従えば生きていける。それは自然から授けられた天性の判断力があるからなんじゃないかな。
田舎に住んでいると、こういう動物の判断力というものがついてくる。仕事をしてても疲れたら休む。何時間働いたとか、何ページ翻訳したとかそんな数字でぐたぐた言わなくなる。数字を気にしなくなること、数字なしで生きていける力こそ、スローライフの一歩だと確信している。[2006/5/10]
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青い月の下で |
風の音が聞こえる
草の香りがする
真っ白な青空に
青い月がもう見えている
そんな自然の中に
一人ぽつんとすわる私。
音も立てず
香りもしないけれど
こんな美しい自然の一部なんだと
そう感じられる瞬間
それだけで生きている意味がわかる
自転車に乗って草原を駆け抜けて、一本ぽつんと立った木陰で書かれたというあるフランス人の友人の詩。そうか、生きることはただ自然の一部になることなんだ。なんだか背中にあった重い荷物もなくなったような気がする。
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親指 |
エクアドルの先住民の人たちの生活様式はまさに自然と深く絡み合っている。
クエンカ市内にあるプマプンゴ遺跡を訪れたときのこと。ガイドさんはペルーとの国境に近い南部のロハを中心とする地域に住むサラクーロというキチュアの一民族の人だった。長髪を後ろにまとめ、冬でも七分丈のズボンを履くのが彼らの伝統。
そんな彼によれば、インカ以前にここに定住した先住民族は朝夕毎日「水浴び」を行い、太陽に向かって今日1日のエネルギーをもらっては感謝した。そして親指を上に向けて、太陽の光を指から感じ取った。
太陽の光、水、親指-まさに自分を自然に「浸す」、自然の力を「吸い集める」その感覚が1日のエネルギーになったんだろうなぁと勝手な想像を続ける…。
今の私たちができるのは、仕事の合間に外に出て「1時間」という限定された太陽の光を浴びるくらいしかないのだけれど…。 [2005/12/17]
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半 |
ホストファミリーのお父さんはキチュア語の先生でもありながらコミュニティーの農業活動も行う「半農・半先生」というわけ。 そんなお父さんとCaminata(散歩)をしていたときに、お父さんが教えてくれたのが自分の住んでいるコミュニティー“トゥニバンバ”のアグリ・プログラム。
お父さんの住む地域の人々が参加して2、3日に一回交代で作物の世話をする。作物の売上高は、参加した人のあいだで分け合う。 「村の中で参加したい人だけが参加する」という自由な形でありながら、「参加者の中で配分する」という柔軟さがとても気に入った。まさに「半民主・半共産」ともいえる形かもしれない。
極端に1つの主義ややり方を徹底するのでなく、いいところどりをする。半分という、ある意味不十分な形ではあるけれど、完璧を目指さないほうが逆にうまくいくことが多いのかもしれない-そんなことを学んだような気がする。[2005/12/11]
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十 |
オタバロの近くにあるコチャスキ遺跡に行った時のこと。先住民族は、カトリックの信仰がある前から「十」の意義を認識していたという。
「十」は東西南北の方角を表す
「十」は自然の四要素を表す-水・火・気・土
「十」は男女の交わりを表す
カトリックの十字架は、縦の棒は横の棒より長いのでこれらとは異なるが、先住民族にあった「十」への信仰をうまく壊して十字架へと変えていったという…
それにしても、方角から男女の交わりまでを1つの「十」という形で表してしまうキチュアの人々の想像力に脱帽。[2005/12/01]
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暗い-明るい |
昨日は日本のロードトリップ・ムービーを見ていた。といっても自分たちで撮影したもの。家の周りの風景が映っていてなんだかやっぱり恋しくなる。ふとそんな郷愁にふけっていたら、ふと!これはどこだ?というシーンに出会った。

周りは夜とは思えないほど、大通りには電灯がつけられ、黒の背景にオレンジの光がいっぱいになっている。車もいっぱい走っているおかげでその明るさに驚いたのだ。うーん、まさかこれは新宿のど真ん中?とはいえ私がビデオカメラ持って一人で撮影しているのも思い出せないし…と悩んでいたら、そのシーンは実は中野区、西武新宿線の「野方駅」の近くだった。
東京にいる人ならわかるだろうけれど、東京も都心を離れればたいていは「郊外」と考えられて、お店もずっと少なくなるから人もまばらになる。昔から東京に住んでいることもあってまぁこうやって勝手な思い込みが多いのかもしれないけれど、たいてい「野方駅」の近くならそうそう住宅街の真ん中にお魚屋さんがあったりして、都心とは違う人の温かさが感じられる場所だったはず。なのに、このビデオではまさに東京の都心、若者でにぎわう繁華街!といった様子である。うーん、なぜだろう。
そして気がついたのが、夜のはずなのにこれだけの街灯がついているという「明るさ」が?だったのだ。住宅街のすぐ近くのはずなのにこれだけ明るい!という事実が、都心のにぎわいを思い出させたのだ。フランスはもともと電気にあまりお金をかけない国だけれど、さらに田舎に住んでいると、メインの通りを抜ければ街灯はないに等しい。今いる家からは最初に見える街灯は500メートルほど歩かないと見えない。街灯がないせいで、庭も夜になれば真っ暗。夜の暗闇がじかに感じられる場所になる。
どうして東京はこんなに明るいのだろうか。もちろん人の多さが田舎との一番の違いではあるけれど、私たちがビデオカメラを回していたところはそれほど人通りの多いところではなかった。なのにどうしてこんなに明るくしておくのか?誰もいないのに電気をつけておく必要ってあるのだろうか?明るいから安全っていうこと?自分の中で疑問があふれ出しては止まらない。
でもこっちの「暗さ」を経験してわかったのが、本当は暗くても目では見えるということ。暗いから見えない、見えにくいと想像していても、暗さに慣れた目は逆に見る力が倍増するようなのだ。自分の中にある、忘れかけていた力、そんなものを感じるとき。遠くの電柱は見えなくても、近くの看板は見える。それくらいでいいじゃない。ゆっくり、星のいっぱいある夜空を見ながら歩いていけばいいじゃない。
明るいからいいっていうわけでもないはず。そして暗いからいいことも実はいっぱいある。周りの環境を変えるのではなく私たちが少しずつ合わせていく。人間は本当ならそんな能力を備えている。視力がそれほどよくない私が体験したことだから胸を張っていえる。地球が温かくなっている「温暖化」のことも考えたら、やっぱり私たちひとりひとりもこうやって小さな我慢を小さな努力に換えていきたいと願う。[2005/11/08]
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キチュア語、自然、時間 |
今でもエクアドルのことを考えると新鮮に頭の中によみがえる風景は、Otavalo(オ タバロ)、Cotacachi(コタカチ)の風景、人々の笑顔 、そしてホスト・ファミリー とのふれあい。

エクアドルNGO派遣員わだあやさんから紹介してもらった Runa Tupari (www.runatupari.com)という団体 の紹介で、コタカチでは先住民族キチュア語を話す家族 の家で寝泊りさせてもらう ことができた。翻訳者である私にとって、世界で数少ないキチュア語を話す人々と時 間を過ごせるなんてかなり 貴重なこと。家族の間ではキチュア語を話し、私たち外 国人にはスペイン語を話す、彼らはバイリンガルでもある。バイリンガルといって も、私の夫のように家庭環境(両親の国籍が異なるなど)の理由からバイリンガルな のではなく、国の言語政策の義務でバイリンガルにな ったという経歴なのである。 エクアドルはスペイン語の国と勝手に決めていた自分を恥ずかしく思った。彼ら にとっての母国語はむし ろ「キチュア語」なのだから。キチュア語を話せない私た ちとスペイン語で意思疎通を行ってくれる彼らに感謝の気持ちでいっぱいになっ た。そんな感謝の気持ちを表そうと、できるだけ挨拶はキチュア語でしようと心がけ た。おはよう、いただきます、ありがとう、またあと で、など、なにげない挨拶を 交わすだけで、キチュアの家族とずっと近くなれたような気がした。
ちなみに、Lonely Planet英語版でキチュア語フレーズブックなども売っているけれ ど(夫はこれをネットで購入)、同じアンデス山脈に住 む先住民族でもペルーに住 む人々の言語を学ぶものだった。数の数え方は似ていたものの、その他はほとんど通 じることもなく残念に思っ たが、それにしてもアンデス山脈に住む先住民族の多様性を 改めて理解した。
スペイン語とキチュア語の先生だったお父さんが教えてくれたキチュア語の中で印象 に残ったのが、Pacha(パチャ)という言葉。歌詞など にも出てくるパチャママは 「母なる自然」。つまりパチャは自然という意味だが、もう一つに時間を表す言葉で もあるというのだ。自然と時間が区別されていないということに驚いた。つまり彼 らにとって時間、時の流れは自然の一部であり、自然を大切にすることは時間を大 切にすること。それはまさにスローライフへとつながる概念なのではと、勝手に感動 する。私たち近代社会は時間を自然から切り離したこ とで、自然の時の流れが無視 され、人だけに都合のよい時間というものが作られたのではないか、と。
時間といえば、彼らの一日の過ごし方はまさに自然の時の流れそのものだった。朝は 6時前後にはにわとりが、ぶたが、いぬが、庭にいるす べての動物が泣き叫ぶ。その 元気がいいこと、うるさいを通り越して気持ちのいい騒音だった。もちろん私たちも それに合わせて目を覚ま し、朝食前に庭の散歩をすると、6時半には太陽がすでに高 いところにある。これだけ強い光を放つ太陽を見れば眠気も忘れてしまう。朝の 7時 半には出かける準備もできていた。これだけ朝が早ければ、帰りも早くなる。4時半 ごろには一日の疲れが出てきて、帰ってくると動物 たちももうすでにお休みモード に入っている。お父さんとお母さんと一緒に夕食をとるのも7時半ごろ。早い夕飯で 就寝前にきちんと消化し て寝られる。これで朝も半分おなかがすきながら起きられ るという自然のリズムだった。[2005/11/02]
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Never to Forget / 忘れない |
Nevet to forget
To love.
To be loved.
To never forget your own insignificance.
To never get used to the unspeakable violence.
And the vulgar disparity of life around you.
To seek joy in the saddest places.
To pursue beauty to its lair.
To never simplify what is complicated
Or complicate what is simple.
To respect strength, never power.
Above all, to watch.
To try and understand.
To never look away.
And never, never to forget.
Arundhati Roy, from The End of Imagination
忘れない
愛し、
愛されることを忘れない
自分なんて、たいしたやつじゃないことを忘れない
見えない暴力に、
周りからの差別に慣れっこにならない
悲しみの境地にも喜びを見出し、
真っ暗闇の巣穴にも美しさを見出すことを忘れない
複雑なものを単純に扱わない
まして単純なものを複雑にしない
権力でなく、精神力を大切にする
そしてなによりも、じっと見守ることを忘れない
理解しようと心がけて、
決して目をそらさないことを、
絶対に、忘れない
アルンダティ・ロイ、 The End of Imagination (想像の終焉) より
英ブッカー賞受賞のインド人女性作家アルンダティ・ロイが、レストランの食事中に、ペーパーナプキンに書いたという彼女の強い意思。私たちの考える人間の弱さと強さを、彼女らしい視点から新たに解釈しているこの詩で、つらくなったときはがんばれるかも。[2005/10/22]
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変わる -- 変わらない |
フランスも 10 月になると突然秋がやってくる。朝晩は 10 度以下になることも多く、空気もぐーんと冷たくなる。晴れの日もずっと少なくなって、さぁ冬へ向けての準備をしなくちゃと顔を引き締めるようになる。そんな中で季節の移り変わりについてふと考えてみた。

季節の移り変わりは気候の変わり目でもある。もちろん気候だけに限らなくても、気候を私たちを取り巻く自然界と考えれば環境そのものとも呼べるはず。なぜか「環境」というと大気汚染や温室効果ガスとかを考えてしまい、一個人の生活とはほど遠いように感じるけれど、環境を英語で言えば Environment - 周りを指すことを考えれば、人間を取り巻くすべて、山や海などの自然から変化し続ける天気、そしてまさに私たちの一番身近にある空気まで、すべてを含んでいることがわかる。
そう、だから季節の移り変わりは「環境の移り変わり」であり、身の回りの変化である。そう、環境にはいつも「変わる」サイクルがある。たとえば今の季節はだんだん冷え込みが激しくなって冬の寒さがやってくる。寒さが極に達するとバランスをとるかのように寒さを和らげる力が働いて、徐々に暖かさがやってきて、今度は暑さの極へと向かっていく。これが留まることのない「四季の変化」である。こんなにはっきりした季節の移り変わりがない国でも (たとえば赤道直下のエクアドル!)、 朝晩の気候の変化は激しく、世界中どこでも私たち人間を取り巻くすべての自然界はある意味「変わる」のである。
そんなエクアドルの人たちは、身の回りの気候の変化に対してとても柔軟。先進国の人たちのように暑ければ冷房をつけて涼しくし、寒ければ暖房をつけてできるだけ暖かくしよう、なんてことは無駄な努力として、取り入れようともしない。自然界の賢い知恵を持つ彼らは、動物と同じように人間の中にも生まれつき環境に合わせて自分を少しずつ変化させる能力が備わっていることを知っている。だから冷房も暖房も持たずに、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ、自分を変えることで自然の空気の変化と調和のとれた生活しているのである。
「環境は移り変わる」‐これは私たちがコントロールできない事実。受け止めなければいけない決まりごと。なのに人間は自分の近くの身の回りを少しずつ変えようとしてきたのではないだろうか。寒い冬でも少しも我慢することなく暖房に頼って生きる。夏になれば冷房をいたるところでつけてできるだけ暑さを避ける。私たちはそうして身の回りのすべてを変わらないもの、変わってほしくないものとして扱ってきたような気がする。
環境は変わるもの、それに合わせて人間も変わるもの‐こうして人間も自然の一部になれるんだと思う。変わるにはきっと時間がかかるんだろうけれど、まぁゆっくりやっていけばいいじゃない。寒い手を息で温めながら、冷え性の私も少しずつ変わっていけるんだと希望を持ちながら。[2005/10/17]
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バカンス |
久しぶりにフランス人の家に招待された。5日ほど泊まらせてもらったので、食卓をともにすることも多かった。そのときの新たな「再発見」…。
こちらの人たちは「食前酒‐アペリティフ」を夕食の前にいただくが、実はこれ特別な機会だけに限られたものでなく、時間があればいつでも行うものらしい。レストランに行けばメニューにあるから自然に食前酒を頼むのが私の習慣だけれど、レストランだけでなく自宅で毎晩アペリティフをとる習慣があるようだ。
おつまみのカシューナッツやらピスタチオと飲む食前酒、これが毎晩でるのに驚いたのもつかのま、さらに想像と違っていたのが、食前酒の時間が延々と続くことだ。こちらの人のアペリティフは食前酒と言ってもただの前座ではない。それはむしろ食卓のメインの一部として機能しているから、長い時間をかけて楽しんでいるのである。夜の 7 時半頃からはじまって 10 時、やっと日が沈み始め暗くなってきた頃にバーベキューやらメイン料理が出てくる。おなかがすいているときには、このアペリティフの間にナッツを食べ過ぎてしまうなんてことも考えられるけれど、私以外には誰もそんな子供みたいなことはしない。周りの人との会話を楽しみ、日が沈むのをゆっくり肌で感じながら時を過ごすのである。
そこにはただ目的もなにもない時間の過ごし方があった。食前酒とはもともと食欲をそそるために飲むお酒のことだかそんな目的なんか忘れて、ただ隣の人と会話をはずませ、ただお庭で風の音に耳を澄ませる時間。それが私の友人たちの毎晩のアペリティフの時間だったのだ。
はじめはメインの夕食を待ち望みながらいらいらのつのる時間だったアペリティフが、ふとただ目的もなく過ごせる貴重な時間と考えたらなんだか気が楽になった。今は食前酒の時間だから飲みすぎてはいけない、とか、メインの夕食があるからここで食べ過ぎてはいけない、なんて将来の目的のことばかり考えていては、ただ時間を無駄に過ごすだけ。今ここにしかない時間を今ここでしかできないことで過ごす (それには何もしないということも含めて) 、これが生まれつきこの人たちの中に流れているんだ、と気がついたら周りの人たちの笑顔が温かく感じられるようになった。
こんなことをいろいろ考えていたら、フランス人のバカンスがアメリカや日本と比べて 1 ヶ月と長いわけもふとわかったような気がする。それはアペリティフに限らずこうやってゆっくりと過ごす時間が長いから。こちらの人たちは時計を気にせずただ時を過ごす、それが本当のバカンスなのかもしれない。[2005/08/21]
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ふたり |
Now you will feel no rain - For each of you will be shelter to the other.
Now you will feel no cold - For each of you will be warmth to the other.
Now you will know no loneliness - For each of you will be companionship to the other.
Now you are two persons - But there is only one life between you.
- A American Indian Wedding Prayer
もう嵐がきたってどうってことない だってあなたがわたしを守ってくれるから
もう寒くなってもへっちゃら だってあなたがわたしを暖めてくれるから
もう寂しくなんかならない だってあなたがわたしのそばにいてくれるから
あなたとわたし ふたりには ただひとつのいのちがあるだけ
-アメリカ先住民の結婚への言葉
ふたりでいることはただこういうことだったんだ。相手に頼って、相手にもたれかかる。そしてそんな相手を自分も受け入れる。これはまさにイギリスの思想家サティシュ・クマール Satish KUMAR の "非" 独立宣言、つまり相手がいて自分がいる、それに尽きるのかもしれない。久しぶりに出会った素敵な文章を私なりの日本語の言葉にしてみた。あなたの周りの素敵な二人に送る言葉としてどうぞ。[2005/07/25]
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インターナショナル |
最近パリで日本にいたときの友人に再会した。イギリス・マンチェスターで働いている彼女。南仏をはじめフランスにちょっとしたバカンスに来たというわけ。田舎暮らしに慣れている私も、昔の友人であればと、いそいそパリへと出かけた。
いろいろ話しを聞いているうちに、彼女の周りには日本人の友人が多くいるという。そして彼女がその友人を 2 種類に区別していることにだんだんと気がついてきた。「普通の」日本人と、「国際結婚をしている」日本人とである。「普通の」日本人といっても、看護婦さんであったり英語の勉強をしていたりとさまざまなのだけれど、とりわけ「国際結婚をしている」日本人はまるでそれが「仕事」であるかのような言い回しである。比率としては同じくらいらしいが、この「国際結婚」という言葉を久々に、それも集中的に聞いて、そういえば日本でもあっ持っていたあの違和感を思い出した。

そもそも「国際結婚」というのは変な言葉だ。「国際」とは 他とのふれあいを表す「際(たとえば交際)」と国という二文字からできている、いわばインターナショナル international の直訳というわけだが、それにしてもこの「国際」と「結婚」がどうしても合わないような気がするのだ。確かに国籍を超えた結婚という意味を含みたい気持ちはわかるけれど、だからと言って英語のインターナショナルには単に「国籍を超えた」という意味より壮大な世界が広がっているような気がしてならないのである。
国際とつく他の日本語を思い浮かべてみた-国際会議、国際開発、国際関係、国際機関、国際協力。例を挙げればきりがない。でもこの例を見ただけでも、「国際結婚」とはなんだかちょっと違う気がしないだろうか。国際会議や国際関係には、「国家間」といったより大きな視点がある。それにたいてい二国以上を想起させる。ただ国籍の異なる二人が一緒になることを示す「国際結婚」よりはずっとグローバルで、より多くのヒトが関わっている印象さえ出す気がしてならないのである。
翻訳者という仕事がら、どうしてもこの「国際結婚」という概念を他の言語ではどういうのかが知りたくなった。いろいろ調べてみると、少なくとも欧米語(英語、スペイン語、フランス語の 3 つ)にはこういう固定した概念はないらしい。それもそのはず、移民から始まったアメリカや現在では国境もないに等しいヨーロッパを見ればすぐにその理由にわかる。「国籍を超えた結婚」などとあえて指摘する必要もないくらいにすでに多くのケースがあり、例えば私の周りを見回してみただけでも、ポルトガル人とドイツ人、イギリス人とアメリカ人、フランス人とシンガポール人、イギリス人とカナダ・ケベック人と同じ国籍でないペアがずらりと並んでいるのである。「国が違う」とは言え、結局は人間同士の結婚-国籍の違いなんてささいなこと、と笑い飛ばしているかのようでもある。
だからそもそも「国際結婚」を示すような単語はない。「国際結婚している日本人」などと形容詞のように使うこともできない。欧米の人たちは、例えば「カナダ人と結婚している○○くん」などと言うことはあっても、「国際」結婚などとおおげさな表現は使うことはできないのである。
「国際結婚」が風変わりであることは、和英辞書を調べてみるとさらによくわかる。たいてい「国際」に匹敵する英語は、international や world だったりするのだけれど、国際結婚だけは mixed marriage-この表現、辞書の製作者には悪いが、できるだけ使うのを避けたほうがいい表現だとさえ思う。確かに mixed には日本語の「ハーフ」みたいな「異種交配」といった意味も含まれているのだろうけれど、それは子供ができたときの話であって結婚自体を異種交配?!と考えるのもどうだろう。さらに夫とも笑っていたのは「mixed marriage」が国際結婚なら、普通の結婚はどうなるんだろう…と。結婚自体、もともと知らない二人が一緒になるんだからある意味 mixed であって違うものが混ざり合っていくはずだけれど、そうじゃないんだろうか…
もちろん日本は島国で国境というものが地に存在することに疎い国民だから「国際結婚」のような、一見響きのいい言葉だけれどよーく考えてみると不思議な言葉が出てきたりするのかもしれない。それにしても「国際結婚」と聞くとなんだかいろいろありそうな気がするけれど、単に mixed marriage と言えばもっと気楽になるのも確か。カップルならみーんな結局「ミックス・マリアージュ」だからね。違いを楽しむ雰囲気が出ているこの言葉、日本語としてはけっこういいかも。[2005/07/20]
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ふるさと |
フランス人とスペイン人夫婦のおうちに夕食に招待されたある日のこと。私もスペインのセビリアに滞在した経験があって、セビリア出身である奥さんとセビリアのお祭りの話しで盛り上がっていた。セビリアには特に中世から伝わるというお祭りが今でもいくつか残っていて、そのひとつが 3 月のイースターに行われる「セマナ・サンタ (聖週間) 」である。その荘厳さというか異様ともいえる不思議な空気を私も忘れることができないのだが、結婚して 5 年というこのご夫婦、フランス人のだんなさんはセマナ・サンタをまだ見たことがないという。
スペイン・アンダルシアの明るくおおっぴらな人柄の奥さんは「そうなのよー、まだうちのだんなセマナ・サンタ見たことなくって(もちろん全部フランス語ですが、日本語にするとこんな感じ)。信じられないでしょ?でも仕事の都合で休みが合わなくってねぇ。今度休みがとれたら絶対に見せてあげなきゃ。」とかなりの息の入りよう。
横でだんなさんはにこにこ笑っている。そう私が観察している間にも、彼女は私を証人のように扱ってはセビリアのすばらしさを夫に見せつけたくてたまらないよう。「っていうか、すごいでしょ、あのセマナ・サンタは。あんなにキリストの血まみれになった姿が見られるのってスペインだけよ。怖いくらいのあの表情、迫力あるでしょう。本当にもうすぐ死んじゃうんじゃなかって。私なんか時々涙がでてきちゃうもん。」
彼女のセビリアへの深い思いを知って、私もうなずくしかないのだが、実際セビリアという街は本当に素敵な街であるので、彼女の思い入れがよくわかる。セビリアの話しをする彼女の瞳はいっそう輝きを増す。そうか、自分のふるさとの話しをするのにここまで熱くなれるとは。ふと、自分のことを考えてみた。
私は人生の半分以上を東京で暮らした。今自分の子供のころを思い出せば出てくる言葉はマンション、駐車場、そしてデパート。住む場所は高層マンションの一室、遊び場は駐車場がほとんど、そして何か買い物に行くとすればちょっとおめかししてデパートへ。もちろん東京にはいい美術館や博物館もあってそれは行き尽くしたけれど、普通の生活を成していたのはこんな 3 つだったような気がする。うーん、わたしが自分の「ふるさと」を誇るどころか話しもできなのは、ふるさと自体に特別なものがなかったからだということがよくわかる。
「ふるさと」とは故郷であり古里である。そう自分が生まれた土地でもありながら、同じ読みで「古くなって荒れ果てた土地、昔、都などのあった土地」のこともいう。どちらも万葉集に出てくる用例だけれど、自分が生まれた土地のことを古く荒れ果てた土地と同じ読みをするのを知ってなんだか寂しくなった。昔から日本人は生まれたところを誇りに思うどころか常に、離れ・忘れることを考えていたようにさえ思える。成長することを念頭において今ある場所から次の場所へ、そういうプラスの変化ばかりを求めていたのだろうか。生まれた場所という過去へ戻ることをマイナスの変化と受け止めて否定的に捉えていたのだろうか。
私の出会ったスペイン人の彼女にとってのふるさとは、故郷でも古里でもない。それはむしろ英語やヨーロッパ語の表現である hometown、つまり家に近いんだとわかる。だから彼女がセビリアの話しをするときにはまるで自分の思い出について話しているかのよう。いろんな人に見てもらいたいし、聞いてもらいたいところ。自分が生まれ子供時代を過ごした場所が、自分そのものと重なっているのである。
そんな彼女をうらやましく思った。自分と同じように誇れるものが自分ではない別の場所にもあるという事実。そういう事実がまた彼女をさらに元気で美しくしているようにも見えた。私もなんとか自分の生まれた場所、住みなれた場所を誇りに思えたいけれど…電車で 15 分で都心に出られるのよ、なんて自慢するよりやはり何もないと認めるほうがまだいいかなと思う。
そして大人として、これからの子供たちのために、何か自慢できるような風景や歴史や自然を持つ街がどんどん (特に日本に) できてくればいいなと願う。個々の街がそれぞれの魅力を持つ、そのローカル(局地性-それはある意味その場所にしかない唯一の魅力ともなりうる)な視点を大事にしながら。[2005/07/03]
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光 |
日本でここ数年行われている「 100 万人のキャンドルナイト (Web サイトはこちら) 」。夏至の日の夜 2 時間、電気を消してスローな夜を、という響きが気に入って、私もフランスでやってみることにした。
夏至というのは北半球の夏が最も長く、夜が最も短くなる日。でもこちらではそういう雰囲気よりも夏の初め!というハッピーな日なのである。特に5月でも寒い日が続いていたフランスではまさにお祭り!それもあってか毎年 6 月 21 日は「 Fete de la musique - 音楽祭」ということで、全国各都市でロックの野外コンサートが行われたり、こぢんまりした Bar ではジャズ演奏などが行われるという。そんな音楽祭に行くのも惹かれたけれど、涼しくて気持ちのいい夏の夜に人がいっぱいいるところにいるのもなんだかなぁ、ということで、キャンドルナイトをやることにした。
キャンドルナイト!とはりきってみても、準備はそれほど大変ではない。日本では電気を消して 2 時間を過ごしたらけっこう真っ暗になってしまうし、そのためのキャンドルだってちゃんと前もって買っておかないといけないだろう(普通ろうそくがあっても、白くて細長いろうそくか、お誕生日用の小さなキャンドルとかでしょ)。でもまずこちらにいると違うのは、日が沈むのが10時半ごろであること。日本と比べて夕食を食べる時間も 8 時半から 9 時ごろと遅いけれど、かなり遅くまで明るいので、キャンドルをいっぱい用意する必要もない。もうひとつは、普通の家庭に「キャンドル」は浸透しているということ。たいていクリスマスや年末年始、誕生日など何かしらイベントがあればキャンドルを出してくるからである。蝋燭台は 2 台もあって、1 つで 3 本も立てられるようになっているから、6 本ものキャンドルを灯せば、明るくて美しいほどの光になるのである。
キャンドルを囲んでの食事は、いつもの夕食とはやっぱり違う。火を囲み、目の前にある食べ物を口にしながら、みんながひとつの話題に参加して時間が過ぎていく。「火を囲む」というのは他の動物たちと人間を大きく分ける特徴だという。そういえば昔「歴史」の授業でクロマニヨン人やらネアンデルタール人など原始人が「火」を起こすことをはじめてから、人間という文化的動物が生まれたなんていうのも習ったっけ。そんなことまで考えると、普通のキャンドルナイトが私たちの祖先へもつながっているんだとさらに重みが出てきたり。
おもしろいことに、キャンドルナイトをしていると、時間が過ぎていくのを忘れてしまう。私はとくに時計を持っていなかったからだけれど、周りのみんなも時間などまったく気にせずにただその場から離れることができないでいるのである。けっきょく終わったのはろうそくがほとんど融けて明かりがなくなりかけた真夜中の12時ごろ。なぜだろう。
その場にあるのは、ただただ炎々と燃え続け、とどまることはないろうそくの火。ろうそくも長かった分、火はずっと消えることがなかった。だからなんとなく私たちもろうそくの火とともに残ってしまっていたような感じ。そのうえろうが融けていくのを目の前に話していると、時間が過ぎているのはわかるんだけれど、普通の夜なら「あぁ早く寝なきゃ」っていうようなその場を離れる義務感を忘れてしまったのである。それはきっと、ろうそくのろうの融け方の時間が、5分とか15分とかそういういわゆる時計の時間とは同じでなかったから。あぁ半分くらいろうが融けたんだなぁっていう、いわば「ろうそくの時間」だったから、現実の「時計の時間」とはまったく別の時の流れがあったような気さえする。
そう、いつもなら時計ばかり気にして寝る時間を考えて、時計ばかり気にして明日の朝起きる時間を考える。そのうえテレビを見ながら生活している人は、時計を見なくても「テレビ」が時計代わりになって、次の番組が終わればあぁ何時ごろなんだなぁというのがわかったりする。この番組が終わってから寝ようなんていうテレビの時間で生活リズムが作られている人だっているだろう。でもキャンドルナイトの「ろうそくの時間」は私たちが経験したことのないような、「時計の時間」とはまったくリズムの違うもの。そしてそれが私たちの食事を、会話を、火を囲む「ひととき」を特別なものにしてくれたのである。
キャンドルナイトのニュースは日本全国各地で取り上げられていた。私たちがやったフランスでのキャンドルナイトはたった4人だけのちいさなもの。それでも時計の時間を忘れて「ろうそくの時間」を私たち4人だけで過ごせたのはとってもいい思い出だった。キャンドルナイトは、夏の初日に始まり、これから天気のいい日にはいつもやっていこうとみんなで(といってもフランスで4人だけだけど!)決めたのは、地球環境に優しいからというよりもやっぱり「楽しいから」という快楽主義からに違いない。[2005/06/25]
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食 |
「食べ物は生き物だ」とは文化人類学者の辻信一さんの言葉である。唐突に言われても困るだろうが、この言葉を心から感じることができたのがこちらでのバーベキューだった。
招かれた家は平屋の小さなおうち。家の広さと同じくらいのお庭があるけれど、アメリカのように広大な庭にプールという広さでもない。こじんまりとしてすべて見渡せる広さに、洗濯物も干してあるし、ゆっくり休めるベンチまである。小さいから、人同士の暖かさが凝縮されている感じがする。自分ひとりの空間を確保できながら、家族の存在もいつも見てとれてそういった「安心感」みたいなのがよくわかるおうちである。
そのお庭を全部見せてもらうと、小さないくつもの区画に分けてあって、よく見てみるといろいろな形の葉っぱがあるのがわかる。聞いてみると、「あれはかぼちゃの花。こっちはズッキーニ。ズッキーニの小さいのみたいな実がピクルス」にはじまり、ねぎ、たまねぎ、レタス、トマトまで私たちがよく食べる野菜ばかりが「植物」という生き物の形で存在している。また、カシスの実やクランベリーまであってその摘みたてを試食させてもらったら、そのおいしいこと!これまで恥ずかしながらジュースなどの加工物でしか味わったことがなかったから、こういう味だったんだという感動とともに、純粋にそれぞれの果実の味の違い、質の違いを楽しむことができた。
ここまでさまざまな種類の野菜・果物が育てられていることに圧倒されてしまった。畑の大きさは 2 メートル四方の小さいもの。いわゆる「家庭菜園」というものだろうが、こんなに小さくても一家族分と考えれば十分な野菜の量と種類が生み出されているのである。その効率のよさにまた感動してしまった。
さらに奥へ歩いてみると、にわとりが 1 匹、きれいな白い羽をふわふわさせて私のほうへやってきた。逃げないように柵はあるけれど、にわとり 1 匹が自由に歩き回るには十分の広さがあって、のびのびとして育てられていることがよくわかる。そして隣の小屋に毎日 1 個たまごを産むんだという。わらで作られた巣のところへやってきて、きちんとたまごを巣の中においてまた外へ出て庭をかけまわる。巣もえさ置き場もきれいにしてあって、たまごを買う必要のないこの家族のにわとりへの「感謝」が形になっている気がした。
こんなお庭でのバーベキューは、むしろお庭からやってきた野菜をあつめた「食祭」ともいえる。お肉以外の野菜はすべてお庭からのもので、レタスなんかはスーパーで買ったものとは違い「レタスの味」があって(レタス 1 枚でぱくぱく食べられる喜び!そういえば日本のレタスはあまり味がなかったようなー)厚みもあってかりかりしている。このおいしさがお庭でのびのびと育てられたレタスからのこの家族への「感謝の表れ」なのかもしれない。たまごはゆでたまごにしたら、黄身はむしろ「オレンジ」に近いほどの鮮やかな色。色の鮮やかさにお母さんであるさっきのにわとりの「小さな幸せ」がうかがえる気もしてきた。そう、そしてこの瞬間こそ「食べ物は生き物だ」を実感したときである。
「食べる」ということは他の“生き物”をいただいていることと同じなのである。すぐ横にいるにわとりを眺めながらおいしくいただくたまごの味には、その生の重みが加えられている感じ。このお庭で生まれたという「貴重さ」もさらに味をおいしくしているのかもしれない。
食べ終わった後も、パンや野菜の食べ残しはにわとりにあげたり、やってくる鳥たちにあげたり、またお庭へ戻っていった。食べ物は生き物である-だから食べ物を捨てるなんてことは極力せず、食べ物を生き物として扱う。土に還すこともそのやり方のひとつだといえる。私たちが切り落としたピーマンの残りをまたにわとりがおいしそうに食べているのを見て、人間は同じ動物の一部であることを再度実感した。食べることを通して自分の「生」をも感じ取れるすばらしさ。今度都会のスーパーで売られている野菜や果物、たまごなどを見ても、この感触を忘れずにいようと思う。[2005/06/19]
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セール |
わたしが今住んでいるところはパリからの電車の駅がある古い街から20キロも離れた、人口1200人の小さな田舎町。20キロといっても、大道路では車で時速100キロまで出せるので、それほど遠くはない。といっても歩いていったら5時間ほどかかってしまうだろうし、自転車でもへとへとになってしまうけれど。
ヨーロッパでは大きな街の周りに小さな田舎町が散在する形式が多いような気がする。ここでも同じで、車で10分も行けば次の小さな田舎町に出会う。小さなところではお店が一軒もない村もあったりするので、そういう人たちの暮らしぶりは半自給自足であるようで、にわとりやうま、ひつじなどを広いお庭で飼っていたりする。まさに地に(地球、ひいては自然に)足の着いた行動と言えるかもしれない。
ろばもよく飼われる動物のひとつで、このあいだはある村の「フォワール・デ・ザン」・・・ロバフェア!にふと出かけてみた。フランス語のフォワールは英語のフェアとほとんど同じで、たとえばフランクフルト・ブックフェアにもこの「フォワール」の単語が使われている。フランクフルトの規模の大きさと、このロバフェアではだいぶ違うはずだけれど、同じ単語を使ってしまうところは、外見で区別しないフランス人の精神を反映しているのかもしれない。
さてさて、そのロバフェアは大盛況だった。リニエールという村で行われているこのロバフェアは、まさにろばの “セール” であり、毎年フランス南部・プロバンス地方からもやってくるとか。会場はろばの品評会から、現在「売り出し中」のろばが全部で 100 頭ほどが並ぶ。周りにはワインやチーズなどのおつまみを買うスタンドから、ろばの絵画や彫刻を売る画家や、ろばに乗るための馬具、はたまたろばのぬいぐるみやキーホルダーなどのロバグッズを売るお店まで出て、半分お祭りの雰囲気もある。
愛らしい毛むくじゃらのろばの赤ちゃんはじっとうつむいていて人間が近づいてもまったく怖がらない。雄ろばと雌うまの混血である「らば」という雑種は馬の風格があって、穏やかな性格のろばの血が流れているようには見えないほど。それにしてもセールに出されて一列に横並びしたろばを見るのは、なんとも不思議な光景だった。
ふと会場を見回していたら、この混雑ぶりに日本の「セール」を思い出した・・・。といってももちろんデパートやお店のモノのセールだけれど。洋服なら冬物、夏物と季節ごとに行うセール。はたまたかばんや靴など、モノごとに行うセール。スポーツ・チームが勝ったことを祝って行うセール・・・うーん、でもどれもモノ、モノ、モノ・・・。モノにあふれている日本、それでもモノを求める日本人の姿がよくわかるような気がする。
月一回や年一回のお楽しみ!というのは同じだけれど、芝生のある広場で行われるロバフェアは「高価なあれを狙う」とか「みんなが持ってるあれをゲットする」とかいうようなセールで見かける競争とはほど遠い。むしろろばとのーんびり「ふれあう」という趣きが強かった。売る人も買う人もみんな笑顔で、ろばの優しさだけでなくこのロバフェアに来ていた人たちの優しさも感じることができた。ろばの「ブリーダー」から、赤ちゃんを連れた若夫婦、小中学生、さらには手をつないだ老夫婦まで、年齢に関係なくただ「ろば」という動物を求めてこれだけの人が集まったその「熱狂」にここで出会った人々の心の豊かさをまでも感じずにはいられなかった。[2005/05/23]
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ベイビーブーム |
日本はもう初夏のような気候が続いているのかもしれないけれど、ヨーロッパはまだまだ寒い日が多かったり。もう5月も半ば「春」だというのに春らしく感じることは少なくて、まだ真冬のオーバーを手放せないこともある。日本では季節の移り変わりを感じるのに気温がわかりやすい要素の一つ。もちろん春には桜が咲いて、秋には紅葉になって・・・という色の変化もあるけれど、都会にいると外に出かけるときの洋服が気温で変わってくるから、季節を「着るもの」で感じているともいえる。
ヨーロッパでは春なのにまだまだ気温は上がったり下がったりして。気温だけを考えるとまだまだ私には「春」なんて呼べない日が多いけれど、最近これこそ「春」なんだと思える光景に出会った。
春になると鳥の鳴き声が(私にとっては「異様に」よく)聞こえてくる。都会にいれば道端で出会う鳥といえばかぁかぁ鳴くカラスか、ちゅんちゅん鳴くスズメくらいだったけれど、こちらの鳥の数といったら数え切れないほどでその鳴き声もまた激しい。というのも春は鳥たちの「交尾」の季節で、オスが「必死になって」メスを探している最中なのだそう。自分の好きな歌声を求めてメスはオスを見つけるのかなぁと思うと、この鳴き声が子孫繁栄のための重要な意味を持つんだと感心してしまう。
春は鳥だけでなく、動物たちにも赤ちゃんが生まれる季節。こちらではお母さん羊に見守られて後を歩く赤ちゃんひつじや、珍しいことに赤ちゃんハリネズミまで出会うことができた。ハリネズミなんて動物園でも見たことがなかったから、そのハリネズミの赤ちゃんを 4 匹見たときは涙があふれそうになった。お母さんハリネズミは人間を感じてか必死に丸くなって隠れていて、その横でまだ目の開かない赤ちゃんハリネズミがよろよろと這い回っている様子は、動物も私たちと同じように生きているんだと感じた瞬間だった。そのうえ最近友達(人間)の2ヶ月になる赤ちゃんまで見せていただいて、まさに私は春こそベイビーブームであることを実感してしまった。
たいてい春を「着るものが軽くなって」感じていた私だったから、動物の赤ちゃんの「ベイビーブーム」から感じることができたのはとても新鮮だった。
自分の中でちょっとした「ベイビーブーム!」を感じているとそういえば日本にもベイビーブームなんていう言葉があったのを思い出した。日本のベイビーブームはちょうど戦後子供が多く生まれて、今の「団塊の世代」という人口グループを生み出したわけだけれど、きっと日本のベイビーブームも、日本にとって「春」の兆しだったのかもしれない・・・。人々の冷え切った心が少しずつ春のように温かくなっていって、赤ちゃんがいっぱい生まれるようになったんだろうなぁ、なんて。
当時のベイビーブームが春だったとすると、今は少子化時代なんていわれているからちょうど春の終わりになってしまうのかな?そんな簡単に今の日本を四季でたとえることなんてできないけれど、こうやって四季を通じて、「冬が終わってもまた春が来る」ような自然の周期を、果ては仏教の samsara (輪廻転生[りんねてんしょう]) なんて言葉を思い出してしまうのもまたそれはそれでいいなと一人で満足してしまった。(でも今の日本を季節にたとえるとしたら春夏秋冬どれなんだろう?というのも気になるところデス)[2005/05/14]
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1 分 |
1 分と聞いてたいていの人なら「短い」と感じるはず。1分の間にできることと言ったらどんなことがあるだろう。今の私ならパスタをゆでながらアルデンテになるまであと“1 分”待つとかくらいかな。普通 1 分間とは気にも留めずに過ぎ去ってしまうほど短いものである。
フランスに住んでいると、日本人の 1 分とフランス人の 1 分は同じなのかと疑ってしまうことさえある。たとえば出かけようとしていて何かを思い出したときに言う「ちょっと待って!」。日本人の平均ならおそらく1、2分の世界。こちらの人たちはといえば、そもそも「ちょっと」の代わりに「あと5分!」と言う。5分っていっても5分より前に来るよねぇ?と頭の中で不安が“いらいら”と煮立ってきたのを感じながら待っていると、やっぱり来ない。それで結局はさっきの 5 分は本当は 10 分の意味だったことに気がつかされる。一人一人のなかで意識する時間というのは違うのだろうけれど、時間の認識に国民性まで感じられたりする。
こちらの人にとっては、5分も10分もそれほど変わらないらしい。そういえばテレビを見ていると、11時に始まるはずのニュース番組が11時10分ごろ始まったりする。テレビ欄と実際の番組に10分くらいの差があるのは日本では考えられないこと。どの時計が正しいのかさえ疑ってしまうほどだ。
電車だって同じ。長距離電車でも5分や10分の遅れであれば、車掌からはお詫びもなにもない。そのうえ乗客もそれほど急ぐ様子もなく「遅れるのは当然」といった様子。10分遅れてあせっていたのは私一人のようだった。地下鉄にも「時刻表」といったものは見当たらないから、1分、2分の単位を気にする人はほとんどいないのだろう。
1分はもちろん5分や10分の差も気にしないということは時間を細かく気にせずにある程度寛容であるともとれる。逆に、1分の遅れにも耐えられないとは、ストップウォッチがないと生きていられないような厳格でストイックな姿勢にも感じられる。まさに機械ですべてが動いてしまうような世界にも聞こえる。
今回の日本の列車脱線事故では、車掌が1分という遅れを取り戻すためにスピードを上げ大惨事につながった。定時を守るというのは日本の電車のサービスのひとつなのだろうけれど、日本を外から眺めていると、社会全体が1分も遅れてはいけないというプレッシャーを生み出していたのではないかとも感じ取れる。社会全体がある意味過剰な期待をしすぎてプレッシャーを与えていたような・・・そうなるとこの大惨事は「急ぐ」ことを求める現代社会の責任であり、社会を構成する私たち一人一人の責任でもあると感じてしまうのは私だけだろうか。
1分という時間に対して社会がにもう少し寛容でいられたら。次の乗り継ぎができなくても10分 という短い時間に対してもう少し寛容になっていれば。こちらで5分、10分待たされることは、急がない=自然のリズムを壊さないということだったんだ、と深く心に留めた。
この事故で亡くなった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。[2005/05/05]
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賞味期限 |
食べ物には必ず賞味期限がついていて、人間はけっこうこの賞味期限を気にして食べるものを選んだりする。冷蔵庫の中身はもちろん、チョコレートやシリアルの箱にも賞味期限がついていて、まぁたいてい賞味期限ばかりを気にして神経質になる人などいないだろうけれど、でもある程度人間の食環境は制限されているとも言える。
自然の世界にも賞味期限っていうのはあるのかなぁと考えてみると、例えばミツバチにとっては花がつぼみをつけ始めてから咲き終わるまでがある意味「賞味期限」となっている。今の季節、花がいっせいに咲き始めると、賞味期限のせまった食べ物が同時にいい香りをはなっていて、あっちの花からこっちの花とうちの庭を忙しそうに飛び回っている。おいしくてたまらないんだろうけれど、期限付きとなると大変そうでもある。
食べるものに賞味期限があるのは当然のこと。人間も虫もできるだけ「おいしいときに」食べたいという願いは同じようだ。ただ食べるものでないのに、賞味期限がついていたとしたらどうだろう。
たとえば映画。近くの映画館で見たい映画を見るにはたいてい公開している期間中に見に行かなくてはいけない。その「賞味期限」は長くても初日から2週間ほど。開けたチーズを2週間以内に食べなくちゃいけないみたいな感じなのかもしれない。書籍だって同じ。次々と新刊が書店の前面に並び、一定の期間を過ぎるとまた新しい本が積み上げられている。3ヶ月前のあの時の新刊はどうなったのかといえば、「賞味期限」が過ぎたので背表紙しか見えない状態に。あまり新鮮でないので、「冷蔵庫」にしまってあります、という感じ。
いわゆる大量生産・大量消費のマス・カルチャーにはこうした「賞味期限」がついているような気がする。大量に存在する商品一つ一つに“楽しむための”賞味期限をつける。ターゲット層である私たちは賞味期限に合わせて「早く食べなきゃ」といった衝動にかられる。マス・カルチャーが増すカルチャーとなっている現在、このまま私たちは賞味期限に追われて自ら選んで楽しむべき「文化」をも選ぶことが少なくなってしまうのか。
世界ではこうしたマス・カルチャーに対抗するカウンター・カルチャーの一つに翻訳文化があるとささやかれている。イスラエルの学者イブン・ゾハル (Even-Zohar) の言葉を借りれば、翻訳には外部からの異物を文化の中心へと浸透させる力があるという。今までその国では想像することも創造することもできなかったような「文化」。賞味期限のついていない、長続きするような文化。それは世界のどこかにある今まで聞いたこともない村のスローな日常を語った書籍だったりするのかもしれない。[2005/04/24]
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スローブック |
世界最大の国際児童書展、ボローニャブックフェアへ行ってきた。イタリアの出版社はもちろん、アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米各国からアフリカ、ラテンアメリカ、アジアの国からも多くの出版社が参加。会場は出版関係のプロしか入れないというだけあって、児童書展なのに子供のいない「ビジネス」の場となっていた。
世界から集まった出版社とはいえ、やっぱりアメリカ・イギリスの二大「英語強国」の力がここでもはっきりと現れていた。会場には出版社ごとにスタンドが設けられているが、その「サイズ」から「装飾」までアメリカ・イギリスの大手出版社のスタンドは「外見」がまるで違う。カラフルなソファあり、テレビ画面でのビデオ放映による宣伝あり、ガラス扉を設けてまさに会社をそのままボローニャまで持ってきてしまったような出版社もあったり。「よい書籍を見つけて、自分の国の/言語の子供たちのために出版する」なんて発想はまったくないような、黒いスーツのビジネスマンの立っているスタンドには、ちょっと立ち寄って本の中身を立ち読みする・・・なんていう雰囲気はまったくなかった。
アメリカ・イギリスからはおよそ100の出版社が参加していたのだけれど、あまりに多すぎるからか出版社ごとの「傾向」というのがどうも見られない。どの出版社も似たような幼児用「しかけ絵本 (英語では novelties)」や白くまが主人公の絵本が多くあって、あの出版社のあの本!といったものがほとんど見られなかった。きっとある出版社が出して売れているのを見て別の出版社が「似たような」ものを売り出すというようなサイクルができていたのだろうとすぐに想像がつく。簡単なアイディアで、しかも売れることがわかっているからどんどん生産する「ファーストブック」。じっくり味わって楽しむ、大人と子供が一緒になって二人だけの時間を作り出せるような本ではなく、一冊読んではさぁ次の本、といった具合に。作っているほうもできるだけ時間をかけずに効率よく書籍を生産・販売し、読んでいるほうもそれに合わせなければといわんばかりに何冊も買って子供に一人で読ませる-そんな姿が目に浮かぶほどだった。イギリスの中小出版社の多くがこのサイクルに入ろうと躍起になって、こうした傾向があっという間に広がったのかもしれない。
こういうファーストブックが特にアメリカ・イギリスを代表とする英語圏の出版文化によく見られる。「右へ倣え」ではないけれど、どの出版社もただ「売れる」ことだけを目指して、別の出版社の売れている本を次々と売り出していく。そういう傾向がある中で、非英語圏のフランスやスペインではそれぞれの書籍が独自の個性を出しているような気がした。内容もイラストもまさに世界に1冊しかない本と言えるもの。ぱらぱらとページをめくっただけで本の中の世界が頭の中まで広がっていく。それは読んだ人だけしか味わえないゆっくりとした感覚。ファーストなサイクルにはないから、一気に売れるなんてことはない。でも、ゆっくり人々の心にじわじわと染み込んでいくような本。そんな本がアメリカ・イギリス以外のスタンドに多く見られたのは気のせいだろうか。
でももちろんアメリカ・イギリスの出版社の中にもさすが!という中身の濃い書籍を出しているところもある。最近の欧米の傾向は特にアフリカやアラブなどの「異国」をテーマにしたものが多くなっているということ。ケニヤ、サファリやガラパゴス諸島などを舞台にした物語やシルクロードの昔話などさまざまだけれど、その根底にあるのは「多文化共生」なんだ、ふと心が温まる。でもどうせなら「本場」であるアフリカやラテンアメリカ、アジアの子供たちが読んでいる書籍を翻訳して読んでみるのもまた一味違って面白いんだろうなぁとさまざまな思いにふける私。それこそ一気に売れるような本ではないけれど、読んだ人の心にじわーっとしみこむスローブックになるはず。[2005/04/18]
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たまご |
今日の Slowordz はたまご。うちの近くではみんな広い庭を持っているので、犬や猫はもちろん、ロバ・馬まで自分の家の庭で飼っている人さえいる。こう見るとかわいくて高価なペットという感じだけれど、「ニワトリ」と聞くと、なんだかイメージがわかない。そう、ニワトリを飼うのは「たまご」目当てだという。
そういえば小学校ではよくニワトリ小屋みたいなのがあって、朝その前を通って校舎の中に入っていったのを思い出す。にわとりのイメージと言えば、とにかく「トリくさい」だった。そして首を前後に動かして足をつま先から前に出して歩く姿もなんだか好きじゃなかった。
そんなニワトリに、こんな場所でまた「再会」するとは思ってもいなかった。友達のお父さんがガーデニングが大好きで、野菜や果物はもちろん(小さな野菜畑にはご丁寧に「トマト」「にんじん」などとラベルまで立てられている!)、ニワトリを一匹飼っていた。高さ30センチほどのフェンスに囲まれてはいるものの、フランスの空気をいっぱいに吸って気持ちよさそうにしているニワトリを見たら、とても幸せそうに見えた。小学校のときのあの「機嫌の悪い」ニワトリとは大違い。
このニワトリは毎朝必ず1個たまごを生むという。毎日1個生むなんて知らなかった。あれ?でもたまごを毎日1個生むなんて大変じゃない?でもこのたまごの中から「ひよこ」が生まれたりしないんだっけ?東京に暮らしていると動物の世界とはまったくかけ離れたところで生きているので、ついつい頭の中でいろいろな知識がかけめぐり頭がこんがらがる。
このたまごの中から「ひよこ」が生まれないのは、このにわとりは「雌鶏」で雄鶏がいないから、たまごはいつも「たまご」である。そう教えられて、あぁそういうことなのか、と納得。
で家に帰って夫と二人で話していたら、二人で「そうか、人間と同じなんだね」と“ゆっくりと”気がついた。ニワトリと人間は、もっと確に言えば「雌鶏」と「女性」はたまご(=卵「ランと読みましょう」)を定期的に排出するという同じメカニズムで生きているんだ、と。だから毎日1個卵を産む雌鶏と、毎月1回卵を輩出する女性と、結局は同じなんだと。毎日と毎月とが違うけれど、それはニワトリと人間の「身体時間」が違うから(たとえば人間の心拍数が1回1秒であるけれどニワトリの心拍数は1回1秒ではないということ)であって、原則としては同じことなんだ、と感心してしまった。
きっとこのニワトリもたまごを産むのに機嫌が悪くなったりするのかな?そんなことを考えたら、このニワトリに親しみが沸いてきた。そっか、私もニワトリもやっぱり同じ「動物」なんだ。「生き物」なんだ。と今日もまた自分の「動物性」を発見する私であった。[2005/04/03]
| Jean Cocteau ジャン・コクトー |
ジャン・コクトーの1943年の映画「美女と野獣」を鑑賞した。久しぶりの白黒映画+オペラのようなフランス語の発音に驚きを隠すことができなかったものの、最後まで見たら結構楽しんでいる自分に気がついた。うん?この快感はなんだろう?ふと考えてみた。
「美女と野獣」といえばもともとフランス18世紀の童話で、お話としてはディズニーがリメイクするなどありきたりの「童話」なのだけれど、「野獣」の住むお城には動くランプやらしゃべる時計など奇妙な物体がいくつもあって、野獣の存在を不思議なものにしている。ジャン・コクトーの映画ではまさに「そのまま」こうした物体が描かれていてまた現代の映画にはない奇妙さがある。
美女がお城の廊下を歩いていると、廊下の壁からぶら下がるロウソクが次々に美女を追いかけるように動く。で、どうやって動くのかと言えば、ランプを持つのは人間の「腕」で、その腕が左から右に動いている。廊下の後ろに人間がいるっていうこともすぐわかる。美女が庭で野獣を待っている場面では、美女の背後の時計が真夜中の12時を指すと、突然時計が「目を開けて、目玉をぎょろぎょろさせている」。時計に目があるなんて・・・って、そうその時計は時計の針を鼻につけた人間の顔。目を開けて目の動きだけで左右を見ようとする時計のふりをした人間なのである。
もちろん、現代の映画技術やコンピュータなどのテクノロジーからすれば「昔の」やり方で「下手な」特殊技術なのかもしれない。あまりに「わかりやすい」「見え見えの」特殊効果。特殊効果であればその裏の技術-マジックで言えばトリックみたいなものかな?-がわかってしまうものは、特殊効果とも呼べないのかもしれない。それでも、私はこの映画のこういう「不細工な」「ちょっと手際の悪い」ディテールに惹かれてしまった。
現代の私たちはコンピュータなどの技術で今まで自分たちの頭で想像できなかったものさえ考え出して作り出すことだってできる。スターウォーズとかロード・オブ・ザ・リングスの映画なんてまさにそうなんだと思う。でも人間が頭で「見る」ことができないもの人間は本当に頭で「認識」して「楽しむ」ことができるのかなぁなんて思ってしまった。これは私がこういう「お金のかかる」映画が好きではないという理由からだけでなくて、人間の「想像力」の問題とも関係しているのではないかなぁなんて思い始めている。
ジャン・コクトーの映画にあった動くロウソク。廊下にロウソクは5本あって、そのロウソクを持つ腕の太さも違うし、美女を追って動くタイミングも少しずつ違う。あまりに早く動いてしまって消えてしまいそうなロウソクさえもある。そうその機械では想像できないような「不安感」「不規則性」そういうものがあってとても奇妙でおかしな雰囲気をかもし出していたのだ。真夜中の12時を指すと突然目が現れ、目がぐりぐり動き出す時計。その目の動きも計算されていないもので、予測できないからなんとも怖い。美女をにらむような目つきをする時計が襲いかかってくるのではないかとさらに自分の頭で想像させられてさらに怖くなったりする。
今の私たちは、CGや特殊効果など「機械」に頼って、自分たち人間の持つ本来の「想像力」というものを使うことが少なくなってしまったような気がする。人間の想像力がそのまま具現化された形となったこの「美女と野獣」を見て、人間も本当はそれぞれの頭の中にまだまだ自分独自の「想像力」っていうものを持っていることにはっと驚いたような感じだった。もちろんこの映画はジャン・コクトーの「想像力」だったからこそ面白かったのかもしれないけれど、人間の「想像力」だけでも世界は十分面白いんだっていうことに久しぶりに気がついたような気がする。
普通のレンタルビデオ店にはないだろうから、こういうのは図書館のAV資料セクションにありそうな気がする。見たこともない方はどうぞ一度楽しんでみては?不思議な世界と子供のような豊かな想像力の世界にはまれるかも。[2005/03/24]
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